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古典醫学の門
(貝原益軒)



貝原益軒(1630-1714)
益軒は寛永7年(1630)年、福岡に生まれた。
江戸時代、三代将軍徳川家光のころである。

名は篤信、若いころは医師として剃髪、柔斎と名乗り、後に蓄髪し損軒と号した。益軒と号するようになったのは晩年である。

19才のときに黒田藩に仕えたが、22才のときに藩主の怒りにふれて7年のあいだ浪人生活を送っている。この間に各地で学び、浪人生活は「民生日用の学」を志させることになった。出仕できるようになってからも、藩費によって京都に留学し、朱子学および本草学をも学んでいる。帰藩ののち、朱子学派の儒者として藩主や藩士に儒書を講義するとともに、「黒田家譜」や「筑前国続風土記」を編纂し、朝鮮通信使の応対なども行った。

自然科学については「大和本草」を刊行している。自宅に花や野菜を栽培してその経験に基づいて「花譜、菜譜」を刊行したほか、

近隣にすむ農学者宮崎安貞に中国の農書を講義した。益軒は自らの学問を【民生日用の学】
と強調、晩年は教訓書の養生訓や和俗童子訓をあらわし、独特の精神修養法を提示した。
儒書としては「大疑録」が重要である。これらの大部分は黒田藩を辞した後、
70歳以降に出版されたものである。また、益軒の著作作品は
六十部 二百七十余巻 にも及ぶ膨大なものである。
詳細は益軒研究の宝庫である福岡周辺の電子図書
(中村学園や九州大学医学部)を参照
してください。

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