和俗童子訓(中村学園版)



和俗童子訓 巻之四

手習法

 古人、書は心画なり、といへり。心画とは、心中にある事を、外にかぎ出す絵なり。故に手蹟の邪正にて、心の邪正あらはる。筆蹟にて心の内も見ゆれば、慎みて正しくすぺし。昔、柳公権も、心正ければ筆正しといへり。凡そ書は言をうつして言語にかへ用ひ、行事をしめして当世にほどこし、後代につたふる証跡なり。正しからずんばあるべからず。故に書の本意は、只、平正にして、よみやすきを宗とす。是第一に心を用ゆべき事也。あながちに巧にして、筆蹟のうるはしく、見所あるをむねとせず、もし正しからずしてよみがたく、世用に通ぜずんば、巧なりといへども用なし。黙れども、又いやしく拙きは用にかなはず。

 凡そ字を書習ふには、真草共に先(まず)手本を選び、風体(ふうてい)を正しく定むべし。風体悪しくば、筆跡よしといへども、なら(習)はしむぺからず。初学より、必ず風体すなをに、筆法正しき、古への能書の手跡をゑらんで、手本とすべし。悪筆と悪き風体を習ひ、一度悪しきくせつきては、一生なをらず。後、能書を習ひても改まらず。日本人の善き手跡を習ひ、世間通用に達せば、中華の書を学ばしむべし。しからざれぱ、手跡すすまず。唐筆を習ふには、先(ず)草訣百韻、王義之が十七帖、王献之が鵞群帖、淳化法帖、王寵が千字文、文徴明が千字文、黄庭経などを学はしむべし。又、懐素が自叙帖、米元章が天馬賦などを学べば、筆力自由にはたらきてよし。

 和流・から流共に、古代の能書の上筆を求めて習ふべし。今時の俗筆をば、習ふべからず。手本悪しければ、生れ付たる器用ありて、日々つとめ学びても、見習ふべき法なくして、手跡進まず。器用も、つとめも、むなしくなりて、一生悪筆にてをはる。わが国の人、近世手跡つたなきは、手習の法をしらざると、古代の善き手本をならわざる故也。

 本朝にも、古代は能書多し。皆唐筆をまなべり。唐人も、日本人の手法をほめたり。中世以後、からの筆法をうしなへり。故に能書すくなし。あれども上代に及ばず。近代は弥(いよいよ)、俗流になりし故、時を逐(おい)て拙なくなる。凡そ文字は中華よりいで、真・行・草もからよりはじまる。日本流とてべつ(別)にあるべからず。から流の筆法にちがへるは、俗筆なり。同じくは、からの正流を、はじめより習ふべし。但(し)近世の、正しからざる唐筆をならへば、手跡ひがみ、よこしまにして、よみがたし。文盲たる人は、から流はよみがたしと云。それは、あレき風を習ひたるを見ていへり。からの書は、真字を先(まず)習ひて、それに従ひて行・草をかく。故に筆跡正し。日本流は、真字にしたがはず、字形をかざる故、多くは字画ちがひ、無理なる事多し。

 真字は、ことに唐筆の正しき能書を、始より学ぶべし。和字(かな)も、古の能書を始より学ぶべし。和字には中華(から)流あるべからず。真字には和流あるべからず。和流に真をかくと、から流に和字を書とは、皆ひが事也。此理を知らずして、今時から流にかなを書人あり。しかるべからず。草書には和流もあれども、から流にもとづかざるは俗流なり、正流にあらず。本朝上代の能書、三筆、三跡など、皆から流に本づけり。其後、世尊寺、清水谷など、能書の流を家流と云。是又、中華の筆法あるは、俗流にあらず。俗流をば学ぶぺからず。まことの筆法なし。近代の和流の内、尊円親王の真跡は、からの筆法あり。よのつねの俗流にまされり。真跡にあらざるは、からの筆法なし。習ふぺからず。真跡まれなり。其外、古の筆法をしらで、器用にまかせて書たる名筆、近世多し。世俗は賞翫すれども、古法をしらざるは、皆俗筆なり、学ぶぺからず。

 小児、初て手習するには、先(ず)一二三四五六七八九十百千万億、次に天地、父母、五倫、五常、四端、七情、四民、陰陽五行、四時、四方、五穀、五味、五色などの名目の手本を、真字に書て、大に書習はしむべし。

 「あいうゑを」五十字は、和音に通ずるに益あり。横縦によみ覚ふべし。かなづかひ、「てには」なども、これを以って、知るべし。「いろは」の益なきにまされり。国字も、皆是にそなはれり。片かなは、をそく教え知らしむぺし。

 凡そ文字を書習ふに、高く墨をとり、端正にすりて、すり口をゆがむべからず。手をけがす事なかれ。高く筆をとり、双鈎し、端正に字を書べし。双鈎とは、筆のとりやうなり。凡そ字を書に、一筆一画、平正分明にして、老草に書べからず。老草とは、平正ならず、わがままに、そさうにか(書)くを云。手本を能見て、ちがはざるやうに、しづかに学ぶべし。才にまかせ、達者ぶりして、老草にかけば、手跡あがらず。書を写し習ふにも、平正にかくべし。常の書札などかくにも、手習と思ひて、慎みて正しくかくべし。かくのごとくすれば、手跡進みやすし。手を習ふには、まづ筆の取やうを知るぺし。

 双鈎とは、筆のもちやう也。大指と食指、中指の二指と対してはさむを云。食指一(つ)をかけてはさむをば、単鈎と云。。単鈎は手かたまらずして、筆に力なし。故に双鈎をよしとす。日本流は、多くは単鈎を用ゆ。

 双鈎の法は、まづ筆を大指と食指にてはさむに、大指のはらと食指の中節のわきに筆をあつぺし。此二指はちからを主どる。次に中指をかがめて、筆を指のとがりにつけ、筆をおさえ、次に無名指の外、爪と肉とのきはに筆をあて、上におさえあげて、中指と相対してさしはさみ、中指は外より内におさえ、無名指は内より外へをす、此二指は運動を主どる。大指と食指にて、上にてはさみたる筆を、又、中指と無名指を以て下にてはさみ、堅固にする也。次に小指は無名指の下かどにつらねて、無名指の力をたすく。筆の左にゆき右にゆく時、無名指をたすけて導き送る。筆をとる事、五指ともにあさきをよしとす。あさけれぱ力つよくして、はたらき自由なり。

 虚円正緊は、筆をとる四法也。知らずんばあるべからず。虚とは指を掌に近づけずして、掌の内を、空しくひろくするを云。あぶみの形の如くなるをよしとす。円とは、掌の外、手の甲をまるくして、かどなきを云。虚円の二は掌の形なり。正とは、筆をすぐにして、前後左右にかたよらざるを云。かくの如くならざれぜ、筆の鋒(さき)あらはれ、よこあたりあり。緊とは、筆をきびしくかたくとりて、やはらかならざるを云。上よりぬきとらりれるやうに取てよし。かくのごとくならざれば、筆に力なくしてよはし。正緊の二は筆の形なり。此四法は筆をとる習ひ也。日本流の筆の取やうは、是にことなれり。単鈎にとりて、筆鋒をさきへ出し、やはらかにして、上よりぬき取をよしとす。

 小児の時より、大字を多く書習へば、手、くつろぎはたらきてよし。小字を書で、大字をかかざれば、手、すくみてはたらかず。字を習に、紙をおしまず、大(おおい)に書べし。大に書ならへば、手はたらきて自由になり、又、年長じて後、大字を書によし。若、小字のみ書習へば、手腕すくみて、長じて後、大字をかく事成がたし。手習ふには、悪しき筆にてかくべし。後に筆をゑらばずしてよし。もし善き筆にて書習へば、後悪しき筆にて書く時、筆蹟悪しく、時々善き紙にかくべし。悪しき紙にのみ書ならへば、善き紙にかく時、手すくみて、はたらかず。

 真字をかく法、大字はつづめて、小ならしめ、小字はのぺて大ならしめ、短字は長く、長字は短くすべし。横の筆画はほそきがよし。竪の筆画はあらきがよし。よこに二字合せて、一とする字はひろくすべからず。上下二字合て一字とする字は、長くすべからず。疏は密に、密は疏なるべし。骨多きに宣し。肉多によろしからず。皆是筆法の習ひなり。

 指を以て、筆をうごかす事なかれ。大字は肘をうごかし、小字は腕をうごかす。筆のはたらき自由なるべし。指は取事を主どり、肘腕はうごく事を主どる。指はうごかすべからず。

 筆の取やう正しくして、筆さきの横にあたらざるやうに、筆鋒を正しく直(すぐ)にすべし。筆直に正しければ、筆の鋒あらはれずしてよし。筆がたぶけば、鋒あらはる。筆鋒のあたる所を、あらはれざるやうにかくすべし。左の筆をおこす所、ことにあらはれざるがよし。鳥のくちはしの如く、とがれるはあしし。又、右のかどに肩をあらはすぺからず。鋒はつねに画中にあらしむべし。是を蔵鋒と云。鋒を蔵(かく)すをよしとす。

 入木(じゅぼく)ということ 筆鋒は紙につよくあたるべし、入木と云も此事也。

 手を習ふに、筆のはたらきの神彩(しんさい)を先とし、字の形を次とす。字のかたちよくとも、神彩なければよしとせず。

 はじめは、一流をもは(専)ら習ふべし。後には、諸流の善きを取て、則とすべし。もはら一流を似すべからず。古人の一流に全く似たるをば、書奴(ぬ)と云ていやしむ。

 筆ひたし過すべからず。又、かは(乾)かすべからず、硯は時々あらひ、新水をかへ用ひ、ほこりを去べし。墨をばやはらかにすり、筆をばつよくとるべし。故(に)墨は病夫にすらせ、筆は壮夫にとらしむと云。和流は、これにことなり、筆をやはらかにとる也。

 手習の後は、物をかくに硯池(うみ)の水をそめず、新水を墨する所に入て、墨をすり、時にのぞみてそむべし。

 筆に墨をそむる事、大字をかくにも三分にすぐべからず。ふかくひたせば、筆よはくして力なし。細字は、猶もみじかくそむべし。

 筆をとるに、真書はぢく(軸)をひき(低)く、草は高くとる、行は共間なり。真一、行二、草三と云。

 腕法三あり。枕腕(ちんわん)あり、提腕あり、懸腕あり。枕腕は、左の手を右の手の下に枕にさする也。是小字をかく法也。提腕は肘はつくゑにつけて、腕をあげてかく也。是中字をかく法也。懸腕は腕をあげて空中にかく也。是大字をかく法也。うでを下にさぐれば、はたらかず。是小字、中字、大字を書く三法なり。

 字を学ぶには、必ずまづ真書を大文字に書習ふべし。内閣字府の七十二筆を先うつ(写)すべし。次に行草を習ふべし。凡そ字を書習ふには、真・行・草ともに、古人の能書を法とすべし。東坡が曰、「真は行を生じ、行は草を生ず。真は、人の立(たつ)がごとく、行は、人のゆくがごとく、草は、人の走るがごとし。いまだ不立して、能行(よくゆき)、能走るものはあらず。」といへり。是を以って見るに、真は本也。草は末也。もろこしに先(まず)真書より学ばしむる故に、字画正してあやまりなし。倭俗は真字を学ばざる故に、文字を知らず、筆画に誤多し。真書を学はざれば、草書にもあやまり多し。本邦近代の先輩、さばかり能書の名を得たる人おほけれど、真書を不学ゆへ、其筆跡、真・草共に多くは誤字あり。証とするにたらず。世俗文盲なる人、真書を早く学べば、手腕(うで)すくむ、といふは誤也。是書法をしらざる人の公事也。初学より真書をよく書習ふべし。初学の時、真・草ともに小字のみ書て、大字を書ざれば、手すくみて、はたらかず。故に初て手習ふには、真・草ともに大に書べし。其後には、次第に細字をも書習ふべし。手のすくむと、はたらくとは、習字の大小にあり。真草によらず。

 文字をかき、書を写すには、筆画を能弁(わきまえ)知りて誤なかるぺし。世俗の字をかくは、筆画に甚だ誤多し。心を用ひて筆画を知るべし。字画を知るには、説文を宗とし、玉篇の首巻、字彙の末巻、及(び)読字彙の内、字体弁徴、黄兀立が字考を以て誤を弁ずべし。字学にも亦、心を用ゆべし。

 書状を書には、本邦の書礼の習あり。必ず書礼を学んで、其法に順ふべし。書礼を学びされば、文字を知る人も、誤る事多し。

 唐流には、筆法の習ひ、猶もこれあり。予、かつて諸書の内を考へ、からの筆法の諸説をあつめて一書をあらはせり。心画軌範と名づく一冊あり。和流には、筆法の伝授とて、字ごとに各々むつかしき習ひあり。唐流には、すべての筆法の習はあれど、和流の如く、かかはりたる法はこれなし。

 世間通用の文字を知るべし。書跡よくしても、文字をしらざれば用をなさず。天地、人物、人事、制度、器財、本朝の故実、鳥獣、虫魚、草木等の名、凡そ世界通用の文字を知るべし。世俗は通用の文字を知るに、順和名抄、節用集、下学集などを用ゆ。順和名抄は用ゆべき事多し。又あやまり多し。功過相半なり。節用集、下学集は誤多し。用ゆべからず。世俗是等の書を用ゆる故、誤多し。近年印行せし訓蒙図彙、和爾雅、倭字通例書、などを選び用ゆべし。今、世俗の通用する漢名・和名、あやまり甚だ多し。能ゑらんで書べし。

 国字(かな)をかくに、かなづかひと、「てには」を知るぺし。かなづかひとは、音をかくに開合あり、開合とは字をとなふるに、口のひらくと合(あう)となり。和音五十字の内、あかさたな、はまやらわは開く音也。江・肴・豪、陽・唐、庚・耕、清・青の韻の字は皆開くなり。をこそとの、ほもよろおは合ふ音なり。東・冬、粛・零、蒸・登、尤・侯・幽の韻の字は皆合へる也。又、和訓の詞の字のかなづかひは、いゐ、をお、えゑ、の三音は、各二字づつ同音なれど、字により所によりて、いの字を用、ゐの字を用ゆるかはりあり。をお、と、えゑも亦同じ。又、はひふへほ、とかきて、わいうゑを、とよむは、和訓の詞の字、中にあり、下にある時のかきやう、よみやうなり。是も和音五十字にて通ずる理あり、是皆かなづかひの習ひ也。五十字によく通ずれば、其相通を知るなり。又「てには」とは、漢字にも和語にもあり。漢字・和語の本訓の外、つけ字を「てには」と云。「てには」と云は、本訓の外、つけ字に、ての字、にの字、はの字、多き故に名づく。又、「てにをは」とも云は、をの字も多ければなり。和字四十八字を、「いろは」と云が如し。学んで時にこれを習ふ、とよめば、ての字、にの字、をの字は、皆「てには」也。やまと歌は人の心をたねとしてよめば、はの字、をの字、ての字、皆「てには」也。又、和語の「てには」、上下相対する習ひあり。ぞける、こそけれ、にけり、てけれ。是、上を「ぞ」といへば、下は「ける」と云、「花ぞちりける」と云べし。「花ぞちりけり」とは云べからず。上にて「こそ」といへば、下は「けれ」と云べし。上にてこそといはば、下にてけりと云べからず。にけり、てけれ、も、これを以って知るべし。又わし、ぞき、と云は、上を「は」といへば、下は「し」と云、上を「ぞ」といへば、下は「き」と云。たとへば「かねのねはうし」、「かねのねぞうき」。此類を云。是皆「てには」の習ひなり。かなづかひ開合と、「てには」をしらで、和文・和歌をかけば、ひが事多くしてわらふぺし。

和俗童子訓 巻之四 終




中村学園教授:水上 茂樹先生の監修による、同学園デジタル版を
当ホームページに転載しております。この場をお借りして、転載
許可を快諾してくださった 水上教授に厚く御礼申し上げます。また
入力されたスタッフの皆様にも御礼申し上げます。






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