田辺定住
1904年(明治37)10月田辺へ来た熊楠は、喜多幅武三郎、多屋寿平次一家、川島草堂らと交わるうち、この地が「至って人気よろしく、物価安く静かにあり、風景気候はよし」ということで、気に入って、ついにここに落ち着くことになった。
中屋敷町中丁北端の多屋家の持ち家を借り、和歌山に置いていた書物を取り寄せるなどして、気ままな生活を始めた。生活費は主として和歌山の実家から送られてきた。町中を知人と飲み歩くことも多かったが、近辺の村に植物採集に出かけたり、町の人びとと話して民俗資料を得たりした。
1906年(明治39)7月、40歳の時、喜多幅武三郎が媒酌人(ばいしゃくにん)になり、闘鶏(とうけい)神社の宮司田村宗造(そうぞう)の四女松枝と結婚した。松枝は28歳であった。田村宗造は旧田辺藩士で、国学を修め歌人でもあった。翌年長男熊弥(くまや)が生まれた。我が子を初めて見た熊楠は、日記に「児を見て暁(あかつき)近くまで睡(ねむ)らず」と書き、父親となった喜びの気持ちを表わしている。
1910年(明治43)7月、同じ中屋敷中丁の、藤木八平の別宅に転居した。翌年3月俳人河東碧梧桐(かわひがしへきごどう)が来訪し、「木蓮(もくれん)が蘇鉄(そてつ)の側に咲く所」という句を詠んだ。1911年(明治44)10月には長女文枝が誕生した。
1916年(大正5)4月になって、借宅の向い側に現在の住宅(中屋敷町36番地)を求めた。ここは敷地面積1,320平方メートル(約400坪)で、2階建ての本宅の外に土蔵と長屋2軒があり、さらに前の借宅地に建てていた書斎をここに移した。
田辺に住むようになってから、近辺の高山寺(こうざんじ)、稲荷(いなり)神社、竜神山(りゅうぜんさん)、鳥ノ巣などによく出かけ、さらに足を伸ばして、国有林のある日高郡川又に赴(おもむ)いたりして、採集をつづけた。家では夜遅くまで顕微鏡をのぞき、気分のよい時は都々逸(どどいつ)を口ずさんだ。熊楠が歌いはじめると、同家の長屋に住んでいた金崎宇吉が、合いの手を入れるのが常であった。ただ、夜中に研究をするため、時々雨戸を開けたり閉めたりする音がやかましく、後年来宿した上松蓊は、一晩中眠れなかったと記している。
1908年(明治41)6月には、中辺路町水上(みずかみ)に行き、3泊してコケ類などの採集をおこなった。その帰りに、はだかで採集用具を持ち、供の者と共に奇声をあげながら、山をかけ下りたので、熊野川(田辺市伏菟野(ふどの)の小字)で田植をしていた女性たちが、天狗でも降ってきたのかと驚き、泣き叫んで逃げたということである。
同年11月には、田辺を出発して栗栖川、近露を通り、川湯温泉に滞在して付近の谷々を歩き、また、北山川をさかのぼって、瀞峡(どろきょう)から奈良県の玉置山に登った。その下山途中で道に迷い、山中に野宿した上、本宮、川湯を経て帰宅し、約1ヵ月の採集旅行となった。晩年足の不自由を嘆いたが、この時の野宿が原因だと口にしていたようである。
2年後の1910年(明治43)11月には、中辺路町兵生(ひょうぜい)から入って、西牟婁・日高の郡境にある安堵山(あんどさん)の山小屋に40日余り宿泊し、隠花植物の採集に従事した。少し離れた奈良県境の果無(はてなし)山系で、珍しいコケの群生を発見して喜んだ。
隠花植物の採集や粘菌の研究に力を入れる一方で、1909年(明治42)ごろから、知人などの所蔵している書物を次々と借りて筆写した。とくに法輪寺(ほうりんじ)所蔵の『大蔵経(だいぞうきょう)』の抜き書きは、毎日のようにつづけて3年かかり、たいへんな精力を費した。「読むというのは写すこと、単に読んだだけでは忘れるが、写したら忘れない」を信条とし、人にすすめ、自分も実行したのである。それが「田辺抜書」として60冊にのぼっている。
熊楠は、帰国後しばらくはイギリスの雑誌に論文を発表していたが、やがて日本の専門雑誌や新聞に投稿するようになった。明治の末年には、総合雑誌の『太陽』や『日本及日本人』にも寄稿をはしめ、とくに大正になって毎年連載された「十二支考」は、和漢洋の多くの文献を引用して考証した、熊楠ならではの代表的な論文である。しきりに寄稿した専門雑誌のいくつかを挙げてみると、『東洋学芸雑誌』『人類学雑誌』『郷土研究』『民俗』『土俗と伝説』『民族と歴史』『民俗学』『旅と伝説』などである。
熊楠の論文は文字通り博引旁証(はくいんぼうしょう)で、いろんな文献を引用するのが特色であるが、同時に見聞による民俗資料も取り入れられている。その際、すばらしい記憶力と人びとから聞いておいたことが活用されることになる。そうした一例として次のような話がある。
今福町の風呂屋からの帰り、広畠岩吉(江川の生まれで生花の師匠)の家によく立ち寄ったが、ここには物好きな人々が集まり、世間話をするグループができていた。熊楠はここで耳にした話を時期を隔てて聞き直し、もし違いなどがあれば、それを指摘して、本当のところを確かめたりするので、「先生の前ではうかうかといい加減な話はできない」と、笑ったものだという。
熊楠は、何でもないような話でも、念を入れて聞いており、散髪屋や風呂屋などでの雑談や、山人や漁師などの話してくれたことが、論文を書く時の資料になったのである。