晩年
1935年(昭和10)9月、県会議員の選挙の際、依頼されて友人毛利清雅の選挙事務長を引き受けた。議員として古参だった毛利が前回落選していたので、熊楠の名声を利用しようとしたのである。
演説会で熊楠が挨拶(あいさつ)をするというので、顔を見ようとする人びとが集まり、会場にあふれた。しかし、熊楠は演説はせず、演壇で頭を下げただけで、挨拶文を他の者が代読した。それでも大きな拍手をうけたという。また、この時、毛利の推せん状の葉書に署名をして、有権者に出したので、記念にと保存する人が多かった。熊楠のこうした支援もあって、毛利は悠々当選した。
日中戦争が起こって戦局も多難になってきた1941年(昭和16)の3月、生涯の親友喜多幅武三郎が死去した。そのころから熊楠も体調を崩し、やがて病床に就くようになった。それでも、菌類を誰かが届けてくれば、それを写生したり、手紙で質問をうければ夜中まで調べて回答したりした。
12月8日、太平洋戦争が始まったころ、いよいよ病状が悪化し、1941年12月29日、「天井に紫の花が咲いている」という言葉を残して、波瀾(はらん)に富み、野人(やじん)として学問研究に終始した生涯を閉じた。75歳であった。
いま、南方熊楠は、田辺の町と神島を望む高山寺墓地に、安らかに眠っている。