進講・進献
1928年(昭和3)10月、日高郡妹尾(いもお)の国有林の伐採が行われることになり、田辺営林署長の好意で入山し、約80日間雪や腰痛に悩まされながら、研究に明け暮れた。この時は菌類をはじめ多数の植物を採集することができて、予想外の収穫があり、トロッコに乗って雪中を下り、御坊市塩屋の知人宅に宿泊後、田辺に帰って来た。
それが翌1929年1月のことで、やがて思いがけぬことが起こった。3月の初め、宮城(きゅうじょう)内生物研究所主任の服部(はっとり)広太郎が突然来訪して、天皇行幸の際は粘菌について進講していただけるか、との内々の聞き合わせがあり、4月末にはそれが確定した。そのうわさは早くから広まり、熊楠はたちまち時の人になったが、進講のための標本採集や整理などの準備に追われた。天皇にお見せする海にすむクモの採取にはとくに苦労し、荒天に船を出して、鈴木新五郎(魚つきの名人)の協力でやっと手に入れることができた。
6月1日(昭和4年)は朝から小雨が降っていたが、熊楠は、アメリカ時代から大事にしまっていたフロックコートを着用し、神島に向かった。天皇は綱不知(つなしらず)に上陸、この日のためにつけられた「御幸(みゆき)通り」を、沿道でお迎えする人びとに目礼しながら、京都大学臨海実験所に歩を進め、午後2時神島に渡られた。
熊楠は神島の林中をご案内した後、お召艦(めしかん)長門(ながと)の艦上で約25分間、すでに採集していた標本をお見せしながら、粘菌や海中生物について進講申し上げ、更に採集整理した粘菌の標本110種を献上した。
熊楠にとって、この日は生涯でもっとも晴れがましい日であった。帰宅後直ちにフロックコートの服装で、写真館に行き自分1人だけのものと、頂戴した菓子を妻松枝に持たせ、2人の記念写真を撮り、また、その菓子を親交のある縁者や知人に配り、喜びを分かち合った。
翌年には行幸記念碑建立にあたり、この島が将来永く保護されるように願って
一枝もこころして吹け沖つ風 わが天皇(すめらぎ)のめでましし森ぞ
と詠んで、自ら筆をふるい記念碑に彫(ほ)らせた。この碑は、繁茂した樹林を背にして、天皇上陸の地点に建てられている。
終戦後、大蔵大臣で学者でもあった渋沢敬三がある日天皇にお目にかかり、話がたまたま熊楠のことに及んだ際、天皇は、「南方には面白いことがあったよ、長門(ながと)に来た折、珍しい田辺付近産の動植物の標本を献上されたがね、普通献上というと桐の箱か何かに入れて来るのだが、南方はキャラメルのボール箱に入れて来てね、それでいいじゃないか」と、申されたということで、天皇にとっては、熊楠の印象が強かったことが察せられるのである。
1962年(昭和37)5月、昭和天皇は皇后と共に白浜温泉に宿泊し、お宿の窓から30余年前に訪れた神島をご覧になって、
雨にけぶる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ
と詠まれた。このお歌を刻(きざ)んだ碑は、南方記念館の前に建立されている。