上京前後
熊楠は各雑誌に原稿を発表する一方、絶えず田辺付近の野山を歩き、植物の研究をつづけた。1920年(大正9)8月には、知友の高野山管長土宜法竜(ときほうりゅう)の招きで高野山に登り、小畔四郎も来て、約2週間一乗院に宿泊し、菌類などの採集に努めた。翌1921年の晩秋にも、楠本秀男(秋津に住む画家雅号竜仙)を伴って高野山に行き、約1ヵ月滞在して、菌類の採集や写生を行なった。
1922年(大正11)3月、56歳のとき36年ぶりに上京し、8月まで5ヵ月程滞在した。これは南方植物研究所設立の資金集めのためで、その発起人には、原敬(はらたかし)、大隈重信(おおくましげのぶ)、徳川頼倫、幸田露伴(こうだろはん)ら、有名人約30名が名をつらねている。募金目標は当時としてはかなり高額で、この基金で、採集した標本の整理や図録の刊行をおこない、今後の研究の充実を図ろうとしたのである。
熊楠は、上京中、時の内閣総理大臣高橋是清(これきよ)を初めとして、政界や学界の著名人を毎日のように訪ね、協力を依頼した。また、熊楠の上京を知って、多くの植物学者や民俗学者が次々と訪ねて来た。こうして募金には相当の協力を得たのであるが、予定の金額を集めるまでには至らなかった。
なお、この上京中に、学生のころ訪ねた日光へ上松蓊らと出かけ、1週間ほど採集を行なっている。
「大正14年1月31日早朝5時前」と記された、矢吹(やぶき)義夫(日本郵船大阪支店副長)宛の手紙は、「履歴書」と呼ばれているもので、南方植物研究所の基金募集の際、その履歴を求められたのに対して、熊楠が巻紙に細字で書いた、長さ7メートル70センチ余にも及ぶ長大なものである。履歴の内容の豊富さ、学識の豊かさなどの点で、恐らく古今にその例がなく、少なくとも日本一長い「履歴書」であることはまちがいない。これはそのままやさしく記述すれば、南方熊楠伝が出来上ってしまうことになり、その記憶力と多方面にわたる知識には、受け取った矢吹も大いに驚いたにちがいない。この長文の手紙は3日で書いたようである。
同じ年の1925年(大正14)3月、長男熊弥が田辺中学を卒業し、高知高等学校(現高知大学)受験のため四国へ渡った。しかし、不幸にも高知で発病し、受験を果たさずに田辺へ連れ帰られた。往診した医師が安静が必要だと言ったこともあって、熊楠は表門を閉め、邸内では声を出すのにも注意を払い、来訪者の面会をいっさい謝絶した。それが1928年(昭和3)5月に京都の病院へ入院させるまで、3年間も続いた。この門前払いが有名になり、事情を知らない人びとの問に誤解が生まれ、無理やり門内に入り込んだ人もいた。その後も熊弥の病状は回復せず、長く入院していたり、海南市に家を借り看護人をつけ面倒をみてもらったりした。最愛の息子の発病は、熊楠にとってまことに残念なことであった。
大正の末年にあたる1926年に、熊楠の著書が3冊刊行された。即ち、2月に『南方閑話』、5月に『南方随筆』、11月に『続南方随筆』が出版されたのである。みな民俗学関係の各誌に発表した論文の集録であるが、まとまったかたちで見られるようになって、熊楠の博識が改めて世人を驚かせた。熊楠の生存中にその著書が世に出たのは、この3冊だけである。いまこれらは『南方熊楠全集』(平凡社版)の第2巻で見ることができる。