在米時代
アメリカ留学の決まった熊楠は、杉村広太郎(のち楚人冠(そじんかん)と号した有名な新聞記者)ら友人たちと別離の会を開き、神戸から横浜に向かい、1886年(明治19)12月22日、シティ・オブ・ペキン号(3,120トン)に乗船して、渡米の途についた。
これより先、親友羽山繁太郎に贈った写真の裏に、「僕も是から勉強をつんで、洋行すましたその後は、ふるあめりかを跡に見て、晴る日の本立ち帰り、一大事業をなした後、天下の男といはれたい」と、その抱負を歌に記している。
ペキン号は、翌1887年(明治20)1月7日、サンフランシスコに入港した。翌日上陸して、熊楠は間もなく同地のパシフィック・ビジネス・カレッジ(商業学校)に入学した。しかし、商業を勉強するつもりはなく、いわば会話を習ったようなものであった。8月にシカゴを経てランシングに行き、ミシガン州立農学校に入ったが、翌年4月、アメリカ人学生と日本人学生との間に乱闘問題が起こり、その責任をとって学校を去り、アナバーに移った。
アナバーには大学があり、2〜30人の日本人留学生がいて、優秀な人材が集まっていた。熊楠はそれらの学生と大いに交遊したが、自分は学校には入らず、読書して独学をするほか、しきりに山野を歩き植物採集に励んだ。とくに菌類や地衣(こけ)類のような隠花植物に関心を強めた。そして、「日本のゲスネルとなろう」と心に誓ったことが、1889年(明治22)10月21日の日記に書かれている。ゲスネルはスイスの博物学者で、独学で世界的な大学者になった人である。
そのうち、フロリダ州にはアメリカの学者の知らない植物が多いと聞き、1891年(明治24)4月、汽車でフロリダに向かい、3日かかって同州ジャクソンビルに着いた。ここには親切な中国人がいて、面倒をみてくれ、3ヵ月余り熱心に植物・動物などの研究を行なった。合衆国最南端のキーウエストという小島でも採集に従事した後、9月中旬キューバ島のハバナに向かった。
ハバナには日本人はいないと思っていたが、着いて40日ほどして、思いがけず外人サーカス団の曲馬師川村駒治郎が訪ねてきた。それが縁でハイチ島に渡り、そこでサーカス団に加わっていた日本人3人に出会い、しばらく行を共にして、熊楠は象使いの下働きのようなこともしたという。こうして、西インド諸島の各地を回っている間に、各種の生物、とくに珍しい菌類や地衣類を採集したのである。この旅行中はキューバ独立戦争の最中で、革命軍に身を投じて負傷したというようなことが伝えられたが、そうした事実はなかった。
1892年(明治25)1月、ジャクソンビルに戻り、八百屋を営む中国人江聖聡の家に厄介になり、そこでフロリダやキューバなどで採集した植物を、夏までかかって整理した。8月に江が店を閉じ、故国中国へ帰るようになったこともあって、熊楠も渡英することに決め、ニューヨークに行って、9月14日シティ・オブ・ニューヨーク号に乗船した。アメリカ滞在は6年であった。