在英時代



 熊楠の乗った船は大西洋を渡り、1892年(明治25)9月21日、イギリスのリバプール港に到着した。熊楠は首都ロンドンに入り、横浜正金銀行ロンドン支店長の中井芳楠を訪ねた。中井は和歌山県人で、南方家とは古くからの知り合いであった。この中井から、父弥兵衛の死去を知らせてきた弟常楠の手紙を受け取り、衝撃をうけた。
 ロンドンでは下町に住み、植物標本の整理をしたり、博物館や美術館を訪ねたりしていたが、そのうち、諸国を巡業していた足芸人の美津田(みつだ)滝次郎に出会い、その知人の片岡政行という古美術商とも知り合いになった。その片岡が紹介してくれて、大英博物館の古物学部長フランクスと助手リードに面会でき、それが縁で博物館に出入りするようになった。
 また、下宿屋の老婆に借りた不備な辞書をたよりに、「東洋の星座」と題した論文を作成し、それが科学雑誌『ネイチャー』に掲載されて、一躍有名になった。以後、しばしば同誌に寄稿するようになった。更に『ノーツ・アンド・キューリーズ』という週刊誌にも寄稿を始め、多数の論考や随筆を発表している。こうして熊楠の名が知られるようになり、ロンドン大学事務総長ディキンスなどとも、親交を結ぶに至った。
 大英博物館には毎日のように通って、収蔵されている古今東西の書物を読みふけり、主として考古学、人類学、宗教学を勉強した。同時に、目を通した書物は厚いノートに筆写した。そのノート類は、53冊もあり、「ロンドン抜書(ぬきがき)」としていまも南方邸に保存されていて、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語などの小さい字で、ぎっしりと書きこまれている。
 熱心に大英博物館に通ううち、熊楠の博学に感心した同館東洋図書部長のダグラスから、館員になるよう勧められたが、自由の身である方がよいと断ったといわれ、同館の書籍目録の作成や仏像の名称の考証などを手伝った。これには、幼少のころから古典や百科事典を写し、それによって蓄えられた知識が役立ったことであろう。
 ロンドンでのことで特筆したいのは、中国革命の父といわれる孫文(そんぶん)と知り合ったことである。1897年(明治30)3月、大英博物館のダグラスの室で初めて出会った2人は、たちまち意気投合し、毎日のように行き来して、時のたつのも忘れて語り合った。当時の熊楠の日記には、その様子が簡潔に記されているが、行間にその親密さがにじみ出ている。しかし、2人の交遊はわずか4ヵ月で終り、孫文は7月の初めにロンドンを出発して東洋に向かった。
 熊楠がロンドンにいる間に、日本の知名の士が何人も訪れてきたが、だれもがその博学に驚くとともに、日常生活でのあまりの無頓着さに強い印象をうけた。
 熊楠は、その学識が一部の学者などから高く評価される一方で、東洋人だということで侮辱(ぶじょく)されるようなこともあって、たびたび乱暴なふるまいをしてトラブルを起こし、1898年(明治31)12月、ついに大英博物館を去らねばならぬことになった。
 日本からの送金も途絶えがちで、翌年には南ケンシントン美術館の仕事を短期間したり、知人と浮世絵の販売をしたりして、生活を支えた。ケンブリッジ大学に日本学講座が設けられて、助教授になれるかと期待もしていたが、その講座は開設されず、生活費にも困り、8年間過ごしたイギリスを、失意のうちに離れる決心をした。
 9月1日ロンドンを出発し、リバプールで丹波(たんば)丸に乗船、帰国の途についた。その日の目記には、「4時出帆(しゅっぱん)、夜暫時甲板(ざんじかんぱん)に出(いで)、歩(ほ)す」と書かれている。


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