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洋彰庵版 養生訓巻第一(総論上)

洋彰庵 利吉



1人間の尊厳性(天地父母の恵み)

人の身は父母を本とし、天地を初として成立し、天地父母の恵みを受けて生まれ育った。それは自身のもののように思われるがそうではではない。天地の御賜物、父母の残して下さったこの身であるから、慎んで大切にし、天寿を全うするようこころがけなければならない。これが天地・父母に仕える孝の本(根本)である。身体を失っては仕えようもない。

自身に備わっているものは、それがわずかな皮膚や毛髪でさえも、父母から受け継いだものであり、理由もなく傷つけるのは不孝である。まして、大切な生命を私物と思いこんで、慎まず、元気を損ない病となり、天命を待たずに早世するは天地・父母への最大の不孝である。

人間として生を受けたのなら、ひたすら父母・天地に孝を尽くし、人倫の道を実践し、義に従い幸福になり、長寿にして悦び楽しむことを誰もが願望するであろう。ならば、まずいま述べた事をふまえ、養生法を心得て健康を保つことである。これこそが人生で最も大事なことであろう。

人の身はきわめて貴重かつ、代え難い。然るに養生法を知らず、欲にふけり身をほろぼし命を失うことは、最も愚かなことである。生命と私欲との軽重をよく考え、日々の生活を慎み、私欲の危険を恐れれば、長生きも出来て災難をまぬがれるであろう。とにかく人生は、楽しむべきだ。

天下四海(全世界)の財を山のように得ても、短命では何の役にもたたない。道に従い、身を保って、長生きするほど大きな幸せはないだろう。長寿は、尚書に、五福の根本というのである。


2養生の心がけによる効果

何事にも努力すれば、必ず効果がある。春にまいた種子を夏によく養えば、秋の収穫が多いように、人も養生の術を学び維持して実行すれば、身体壮健にして病なく、長く人生を楽しめることは必然であろう。これが自然の理で、疑いようのない事実である。


3若いときからの養生を継続する

園芸をする人は、よく養い育て、その成長を見て悦び、衰えるのを見て悲しむ。草木でさえそうであるのに、どうして自分の身体を草木ほどにも愛さないのだろうか。自愛せぬことは甚だしい。

さて養生法を知って実践することは、天地・父母に奉仕孝行することだが、自身の長生・安楽の為でもあるから、不急なることはさしおいて、若いときから養生法を学ぶと良い。身を慎み、生命を養うのは、人間として最も重要なことであろう。


4内慾をおさえ外邪を防ぐ

養生の術は、先ず自身を損なう物の除去である。身をそこなう物とは、内慾(内から生ずる欲望)と外邪(外からやってくる邪気)である。(以下 慾 は現代語の 欲 と記す)

内欲とは、飲食の欲、好色の欲、眠りの欲、言語をほしいままにする欲と、七情の欲(喜・怒・憂・思・悲・恐・驚の7つ)をいう。

外邪とは、天の四気(風・寒・暑・湿)のことをいう。内から生ずる欲望をこらえ、外部からくる邪気を恐れて防ぐことができれば、たえず健康で元気はつらつとして、病気にかからず天寿を全うすることができよう。


5内欲の七情を慎む(具体的条件)

養生の道は、内欲を我慢をすることにある。この根本をしっかり守れば、元気が強くなり、外邪に侵されることはない。内欲を慎まないで元気が弱いと外邪に侵され、大病になり。天命をたもつことができない。内欲を我慢をする具体的条件、それは飲食を適度にして過食せず、脾胃を傷つけるものを食べない事。また色欲を慎み、精力をたくわえ、時ならずして臥床せず、長時間の睡眠や安坐をさけて、ほどよく運動をして気の転換をはかることなどである。

食後には必ず数百歩の散歩するのがよい。食後に安坐したり昼寝をしたり、消化せぬうちに早く眠ってしまう習慣をつけると、身に滞りが生じて病気(元気発生せず)となり、繰り返しているうちに衰弱する。日頃から元気を消耗することを惜しみ、多弁せず、七情をほどよく自己調整するがよい。七情の中でも、特に怒・悲・憂・思の4つを少なくすることが大切であろう。

欲をおさえ、心を平静にし、気を和げ、物事に動ぜず、騒がず、心はたえず和楽で、憂い苦しまず。これがすなわち、内欲をこらえて元気を養う道で、こうした心がけが、外邪に勝つ力となる。このような内外の種々の注意こそ、大切な養生の項目である。よくよく慎み順守しなければならない。


6不摂生は、なしくずしの自殺行為

すべての人間の寿命は、多くの場合は長命で、生まれつき短命という人は稀である。 生まれつき元気で身体強健でも、養生法を知らず、無理をして元気を損ない、日夜精力を消耗したならば、与えられた天寿を保つことなく早世する。逆に、天性虚弱で多病な者でも、養生の術を守り、保養すれば、かえって長生きすることもある。

この二つに例は世間に多く見られることで疑えない事実である。欲にとりつかれて身を失うことは、たとえれば刀をもって自殺をするようなものである。不摂生と自殺とは死期の違いはあるが、自分を自身で害する点では同様である。


7命の長短は養生次第

老子は、「人の命は我にあり、天にあらず」という。人の命は天から受けた生まれつきのものであるが、養生すれば長命となり、不摂生であれば短命となる。つまり長短は、われわれの心がけ次第である。虚弱短命にみえる人も、保養ひとつで長生きできるのを例にとれば、これは人の仕業であるから、人の命は「天にあらず」と老子がいったのだろう。

きわめて寿命が短く生まれついた顔回(顔子:孔子の弟子)などは例外で、多くは自分の養生の力によって長生きするのは道理である。たとえば、炭火を炉に丁度よく埋めれば消えないが、風の吹く場所に出しておけばすぐに消えてしまうし、蜜柑を出したままにしておけば年内も保たないが、深く隠し、よく養へば(この時代の保存方法か?)翌年の夏まで腐らないように。


8生命と外物

(重要な事が記載されている) 人間の元気は、もともと天地の万物を生む気である。(道教等を参照)これが人の身体の根本である。だから人は、この気を受けて生まれるのである。気を受けて生じたあとは、飲食、衣服、住居などの外物の助けによって元気が養われて生命をたもつことができる。ところが、こうした飲食、衣服、住居の類もまた天地の生んだものである。つまり生まれることも養われることも、すべて天地・父母の恩といわなければならない。

元気の養分となる飲食など(外物)を控えめにし、過ぎなければ、生まれつきの内なる元気(内在する天地の万物を生む気)が養われ、天寿を保つが、外物を多く摂取すれば内なる元気が外物の養分(気)に負けて病になる。結果病気が進んで元気が尽きれば死にいたる。

たとえれば、草木に水や肥料などが多すぎると、生気を失って枯れてしまうように。だから心の内に楽しみを求め、飲食など外的な養分を軽くすべきである。外物の養分に頼りすぎると内なる元気を損なう結果になるのである。


9養生の術の第一は心気を養うこと

心気を養うことが養生の第一歩である。心を穏和にし、怒りと欲とを抑制し、憂いや心配を少なくして、心を苦しめず、気を痛めないことが、心気を養う大切な方法である。

寝ることを好んではならない。長く眠っていると、血気の循環が悪くなる。特に食後、消化していないのに臥してしまうと、食気をふさいで大いに元気を損なう。心しなければならない。

酒は微酔までがよく、半かん(宴がたけなわになる前)でやめるのがよい。

食事は半飽(腹八分)がよく、腹一杯食べてはいけない。酒食とも一定量を定めて、限度を超えてはならない。また若いときから色欲を慎み、精気を浪費してはいけない。使い過ぎると、下部の気が弱くなり、元気の根本絶えて、必ず短命になる。飲食や色欲の慎みがなければ、毎日の補薬や栄養も、何の役にもたたない。また、風・寒・暑・湿の外邪を畏れ防いで、起居振舞に節度をもって慎まなければいけない。

食後は適度な運動をし、時に導引を行ない、手足をよく動かし、労働して血気を循環させ飲食をよく消化させる。同じ所に長く安坐してはならぬ。これはみな養生のために欠くことのできない大事なことである。養生の道は、病にかからないときに慎むことである。病気になってから薬を使い、針や灸をもって病を攻めるのは養生の末である。養生の根本は、発病する前に予防することである。


10嗜慾(欲)と忍

(重要な事が記載されている) 嗜欲というのは、耳が音を聴き、目が物を見て、口が物を飲食し、身体が色を好むという人間の身体の各部の欲望のことである。欲望は、本質的にむさぼるものであるから、節度をこえて飲食・色欲などを欲のままにすると、身体を悪くし礼儀に反することになる。

すべての悪は欲望の思うままにすることから起こる。耳・目・口・体の欲をこらえて、これを抑制することが欲に勝つ道である。さまざまな善は、みな欲をこらえて勝手にしないことから生ずる。だから忍ぶことと恣(ほしいまま)にすることとは、善と悪との起こる本(根本)となるのである。養生は「恣」の一字を捨てて、「忍」の一字を守るべし。


11外邪を防ぐ法は要慎

風・寒・暑・湿は外邪である。これによって病となり、死ぬのは天命である。聖人であれ賢者であっても、免れがたい。それでも、内気を充実させて欲を慎んでいれば、外邪による災難も少ないはずである。飲食・色欲によって病気になるのは、もちろん自己の過失によるものである。これは天命ではなく自分の罪である。万事の天変地異はどうにもならない。

これに反し、自分によって起こることは努力次第でどうにかなるものである。風・寒・暑・湿の外邪を防がないのは怠慢であり、飲食・好色の内欲を忍ばざるは過失といってよい。怠慢と過失とはすべて慎みがないから起こるものである。


12養生の要訣は畏(おそるる)の一字

身体を保護して養生するために、忘れてはならない一字がある。これを実践すれば生命を長く保ち病むことはない。親には孝、君には忠、家をたもち身体をたもつ。何を行っても間違いは生じない。ではその一字とは何か。「畏」(おそるる)ということである。

おそれるということは、身を守る心の法である。すべてに注意し、過失のないようにし、たえず天道を畏れうやまい、慎んでしたがい、人間の欲望を畏れ慎しんで我慢することである。つまり畏れることは慎みの心の出発をなすものであって、畏れると慎む心が生まれるのである。したがって畏れなければ慎みもない。それゆえに朱子(栄代の大儒)も晩年には、敬の概念を分析して、敬は「畏」という字の意味に近いと解したのである。


13養生を害するもの 過度と安逸

養生を害するものが二つある。元気をへらすことと元気をとどこおらせることである。飲食・色欲・労働が過度になれば、元気破れ減る(元気がなくなる)。また飲食・娯楽・睡眠も過ぎれば、元気停滞塞がる(気力が衰える)。消耗と停滞とは、ともに元気をそこなうものである。


14心の静と身体の働

心は身体の主である。だから平静を保持しなければならない。身体は心の下僕のようなものであるから、大いに労働させるべきである。心が平静であると、身体の主人である天君もまた豊かで、苦しみもなく楽しむことになる。身体を動かし労働すれば、飲食したものは停滞しないで、血気の循環はよくなって病気とは無縁の存在となる。


15薬・鍼灸よりも予防を

およそ薬や鍼灸を使うことになるのは、下手な手段である。それらを用いる前に、飲食・色欲を慎み、規則正しく寝起きして養生をすれば病にはならない。腹中が痞満(つかえること)して食欲がないときも長時間坐ったり寝たりしないで、ほどよい運動をして身体を動かすと、薬や鍼灸を使用するまでもなく、治る。これこそ上策である。

上薬でも、その病気に合わなければ害になる。まして、中・下の薬は(上中下の薬は本草学で)元気を損なって他の病を引き起こす。鍼(針)は、余剰の気を除くが気の不足を補わない。病態に合わないと元気をへらしてしまう。灸もその病態に合わなければ元気をへらし、精力を発散させて逆効果となる。薬と鍼灸は身体への損益もあり得る。よほどの時でない限り、鍼・灸・薬を用いてはならない。ただ専心、保生(養生の術)を頼りとすべきである。


16養生の道を守る

昔の君子は、好んで礼楽を行い、弓と乗馬とを学んで運動し、詠歌・舞踏をして血脈を養い、嗜欲をおさえて心気を安定し外邪を予防した。こうしたことをたえず心がけていれば、鍼・灸・薬を用いなくても病気にかからないであろう。これこそ君子の実行している養生の基本であって、上策である。よく病いにかかるのは、養生の術を心得ていないからである。

病気になって薬をのみ、痛い鍼・熱い灸にがまんすること、父母から賜った身体を傷つけ、焼くようなこと、つまり熱痛を我慢して身を責めて治療することなどは、きわめておろかで下策である。たとえば、国を治めるのに、徳をもってすれば人びとは服して乱は起こらないが、兵をもってすれば乱が起こる。薬や鍼・灸に頼って病気の治療するのは兵をもって統治するのと同じで、尊ぶにおよばない。(そのうちまた乱(病)がおこるということ)


17健康増進と運動

毎日少しずつ労働(運動)するのがよい。長く坐っていてはいけない。食後の散歩は必要で、庭の中を数百歩静かに歩くだけでよい。雨の日には、室内を幾度も歩くがよい。こうして日々朝晩運動すれば、鍼・灸を使わないでも、飲食はすすみ血気の滞りなくて病なし。鍼・灸をして熱い思いや痛みに耐えるよりも、軽い運動をすれば、痛い思いをせずして楽に健康を保持することができる。


18人間は百歳を上寿とする

人間の寿命は百歳をもって上限とする。上寿は百歳、中寿は八十歳、下寿は六十歳で ある。六十歳以上のひとは長生きである。世間をみれば、下寿を保つひとは少なく、五十歳未満の短命のひとが多い。「人生七十古来まれなり」は嘘語ではない。五十になれば不夭(ふよう)といって若死とはいわない。ひとの命は、なぜこのように短いのであろうか。これはみな養生の術がないからである。短命のひとは生まれつきそうであるのではない。十人のうち九人までは、自己の不養生で体を害している。ゆえに、みな養生の術を心得なくてはならないのである。


19人生五十年の夭(わかじに)

人生五十にならないと血気がまだ不安定で、知恵も出ないし、古今の知識にも暗く、社会の変化にも慣れていないので、間違った言動で後悔することが多い。人生の道理も楽しみも知らない。五十にならずに死することを夭(わかじに)という。これは、不孝短命である。

長生きすれば、楽しみも多く益も多い。これまで知らなかったことを知り、いままで不可能であったことが可能になる。長生きしなければ学問知識の進歩発達は得られないのである。

ゆえに養生の術を実践し、天寿を保ち五十歳を過ぎても、長生きして六十歳以上の寿域に到達すべきである。昔のひとは長生きの術(方法)があり、また「人の命は我にあり、天にあらず」ともという。長生きの術を行おうと決心すれば、長生することは十分に可能である。

人間の力でどうにでもなるのである。それを疑ってはいけない。ところが、気を荒くして欲ばりで慎みのないひとは、長生きという切符は得られないのである。


20内敵に克つは勇、外敵に勝つは畏れ

およそ人の身は弱くもろく、風前の灯のように消えやすい。思えば心細いことである。 つねに慎んで身を保つべきである。まして内外から身を攻める敵が多いのだから、誠に危険である。まず、飲食の欲、好色の欲、睡眠の欲、あるいは怒、悲、憂という敵が身を攻めてくる。これらの敵はすべて身の内から生じて身を攻める欲だから内敵である。なかでも飲食・好色は内欲から外敵を引きこんでくる、もっとも恐るべきものである。

風・寒・暑・湿は、身の外から入り身を攻めるものであるから、外敵という。ひとの身は金や石で作られたものではないので、破綻しやすい。ましてこのように内外から大敵を受けるのだから、内の慎と外の防なくしては、多くの敵に勝てない。だから人びとは長命をたもつことが難しいのである。敵に勝たねば攻められ、身を保てない。だから絶えず内外の敵を防ぐ計略がなくてはならない。生まれつき気が強く壮健であっても、術を知らないと身体を守れない。内敵に勝つには心を強くして忍耐することである。忍とは我慢することだ。飲食、好色などの欲望は、強い精神力で耐える。

外敵に勝つには、それを畏れて早く防ぐことだ。風・寒・暑・湿にあったら、畏れて早く退くことが必要で、この時ばかりは忍耐しないのが得策である。

古語に「風を防ぐこと、箭(矢)を防ぐが如くす」、という。四気の中で風・寒はもっとも畏るべきであろう。長いあいだ風・寒にあたってはいけない。外敵を防ぐには、畏れて早く退くがよく、勇敢であることはよくないといえよう。


21元気を保つ法

養生の道は元気を保つことが根本である。元気を保つ道は二つある。元気を害するものの除去と元気を養うことである。元気を害するものは内欲と外邪である。すでに元気を害するものをとり除いてしまったならば、つぎは飲食と動静に注意して、元気を養うがよい。

たとえれば、田を作るようなものである。苗を害する莠(はぐさ:水田に生えて稲を害する雑草)をとり去ってから、苗に水をそそぎ込み肥料をやって養う。養生もまたこれと同じであろう。まず害をとり除いてからよく養うことである。悪をとり去ってから善を行うようなものである。気を損なうことを除去し、気を養うことを多くするのが養生の要点である。


22人生の三楽

およそ人間には三つの楽しみがある。一つは道を行ない心得違いをせず、善を楽しむこと。二つは健康で気持ちよく楽しむこと。三つは長生きして久しく楽しむことである。いくら富貴であっても、この三つの楽しみがなければ真の楽しみは得られない。

それゆえに富貴はこの三楽にはいれていないのである。ひととして生まれたからには、この三楽を取得する工夫がなくてはならない。この三楽がなければ、富貴であっても楽しめないのである。


23人命の貴さ 天寿を全うせよ

天地の年齢について、邵堯夫(しょうぎょうふ:栄代の哲学者:邵康節ともいう)は十二万九千六百年を一元とし、現在はすでにその半分を経過したと説いている。とすれば、まえに六万年、あとに六万年あることになる。人間は万物の霊長である。だからひとと天と地とをならべて三才と称しているが、ひとの命は百年にも及ばぬ存在である。悠久なる天地に比べるに、千分の一に満たない。天は長く地は久しいのに、ひとの命はかくも短いのかと思うと、自ずから悲しく涙くだれり。

こうした短い命を持ちながら、養生の道を行なわず、短い天命をいっそう短くするのはどうしたことか。人命はきわめて貴重、道をそむいて短くすることなかれ。


24四民勤勉 即養生の術

養生の方法は、務むべきことをよく勤め、身を動かし気をめぐらすことが大切である。 務むべきことをしないで、寝ることを好み、身をやすめて怠けて動かないのは、不養生で、はなはだ害になる。長く安坐し、身を動かさないと、元気が循環しないで、食気滞りて、病になる。

父母によく仕え、君主に忠節をはげみ、朝は早く起き、夜は遅く寝て、四民それぞれ自分の家業をよく努めなければならない。武士たるものは、幼時から読書、習字、礼楽を学び、弓を射、馬に乗り、武芸一般を習練して身を動かすべきであろう。

農・工・商の人びとは、各自が怠けないでその家業にはげみ、朝となく夜となく努力せねばならぬ。 婦女は家庭にこもりがちであるから、気が停滞しやすく、そのために病になり易いので、仕事に努め身を動かすべきである。富貴の娘でも安坐していてはいけない。親・姑・夫によく仕えて面倒をみ、織物を織ることや針仕事や糸をつむぐことから料理をすることまですべて自分の職分と心得て、また子供をよく育てて、きびきび労働したほうがよい。

天照大神も、みずから神の御服を織られたし、その御妹の稚日女尊も、斎服殿において、神の服を織られたことが『日本記』(『日本書紀』)にも見られるから、いまの婦人たちもこうした女性の仕事に努めなければならない。四民ともども家業に励むことは、みなこれ養生の道である。務むべきことをよく勤めなければ、養生の道からはずれ、病を起こすもとになり短命におわる。注意すべきことである。


25養生術の習得

人間には、なすべき業(仕事)が多いのであるが、それを行なう道を術(方法)というのである。わざにはそれぞれ学ぶべき術がある。術を知らないと、成功は困難である。卑やしい芸能であってもその術を学ばなければ何もできない。たとえば、蓑を作ることや笠(傘)を張ることなどは、難しくはない小さな業であるけれども、その術を習わなければ作れないのである。まして人間は天地とともに三才といわれている。この貴重な身を養って命をたもって長生きするのは、きわめて大事なことである。その術がなくてはならない。養生の術を学ばないでどうして長生きすることができようか。

卑しい小芸にはかならず師を求め教えを受けて、その術を習う。技芸の才能があっても、その術を学ばなければ卑しい小芸とはいえ、出来ないからである。貴重な身を養い保つのはいたって大切な術であるのに、師もなく、教えもなく、学習もしないで、つまり養生の術を知らないで、みずからの欲望にまかせたのでは、どうしても養生の道を得て生まれついた天寿をたもつことができよう。それゆえに、養生をして長生きをしようと思うならば、養生の術を把握せねばならないのである。

その養生の術は大いなる道であって、小芸ではない。心してその術を学ばなければ、修得は困難であろう。もし、その術を知っているひとから直接学ぶことができれば、千金にも替え難い。天地・父母から受けたきわめて大切な身をもちながら、これを保つ方法を知らないで、身を崩して大病となり、身を失って早世することは、まことに愚かなことである。ひとは健康で長生きしてこそ、楽しみを多く味わうこともできよう。多病で短命であっては、いかに富貴でもどうにもならない。貧しくとも長命であるほうがよほどすばらしい。

私の郷里の青年(福岡)をみると、養生の術を知らないで、放蕩し、短命なひとが多い。また郷里の老人の多くは、養生の道を学ばないで多病に苦しみ、元気おとろえて早く老耄(耄碌:もうろくのこと)してしまう。たとえ百年生きても、苦しみが多く長生きの意味はない。ただ生きているばかりでは寿というわけにはいかないのである。


26家業精励の中に養生

(養生の術というのは、隠居した老人や若くても世間から離れて安閑としている人びとにはよいであろうが、武士として君主や父に仕え忠孝にはげみ、武芸を習って身を動かしているもの、農・工・商を家業として昼夜に働いて暇のないものには、養生などはできないであろう)とあるひとは言う。人びとが、養生の術ばかりに心がけては、その身鈍り、その業がさえず、役にたたなくなってしまうというのである。しかしこれは養生の術を知らないひとのもつ疑問で、もっともである。

養生の術とは、そうした安閑無事なことをしているのではない。心を静にして身を動かすにあるのだ。身体を安閑にするのは、かえって元気が停滞して病気になる。流れている水は腐らず、戸枢(こすう:戸が回転する軸)は、朽ちないようなものである。絶えず動くものは長く保たれ、動かないものは命が短いものだ。だから四民ともにそれぞれの仕事に努めるのがよい。仕事もしないで遊び暮らしてはいけない。これが養生の術というものである。


27常と変と養生と

さらにつぎのような疑問をもつひともあろう。(養生を好むひとは、ひたすら利己的に自身を大事にするばかりで、命を保つことばかりを思う。しかし君子は、義を重んじる。それゆえに義にあたっては自分の身命をかえりみない。危うきをみて命をささげ、危難に臨んでは節操のために死ぬ。もし養生ばかりを思い、わずかな髪や皮膚でさえも傷つけないようにするものは、大節においても命を惜しんで、義を見失うのではなかろうか)一理である。

が、それについて答えよう。
およそ事には【常】と【変】とがある。常のときには常を行ない、変にのぞんでは変に応ずればよいのである。臨機応変、その時において義にしたがえばよい。平常こと無きときは、身を大切にして命を保つのは、【常】に応ずる道である。大節において命をすててかえりみないのは、【変】における義の行為である。常に応ずる道と変に対応する義との相違を心得ておけばそれでよく、こうした疑いも起こらないであろう。

君子の道は時宜にかない、事変に対応することがよい。常のときに身を養って頑健にしておかないと、大事にのぞんで命をすてて強く戦うことができないであろう。だから常のときによく気を養っておれば、変にあたって勇気を出すことができるのである。


28睡眠と養生

昔のひとは三欲を我慢せよ、という。三欲というのは、飲食の欲、好色の欲、睡眠の欲である。飲食を節制し、色欲を慎み、睡眠を少なくすることは、みな欲を我慢することである。

飲食と色欲を慎むことはよく知られている。だが、意外に知られていないのが、睡眠の欲をこらえて眠りを少なくすることである。睡眠を少なくすれば、元気がよく循環し、病気にならない。夜がふけて床について寝るのはよい。昼寝は有害である。日暮れて間もなく寝ると飲食したものが消化しきれないで、害になる。とくに朝夕において消化せず、元気がまだ巡らない時期に早寝すると、停滞して元気を害するのである。古人が睡眠の欲を飲食と色欲とともに三欲としているのはもっともである。なまけて寝る癖がつくと、睡魔が耐え難くなる。つねづね睡眠を少なく努めれば、習慣になって自然に睡眠が少なくなる。日頃から少なく眠る習慣をつけることが大切であろう。


29養生と口数

言葉を慎み、無用の言葉をはぶいて、口数を少なくするのがよい。口数が多くなると、かならず気が動揺する。その結果は大いに元気を害する。言葉を慎むのも、徳を養い身を養う道である。


30少しの不養生が病気の引き金

古語に「莫大の禍は、須臾(しゆゆ:しばしの間の意味)の忍ばざるに起る」という。 大きな禍は、しばしの間、欲をこらえないから起こるのだ。酒食・色欲などもしばしの間の、わずかな欲を堪えなかったのが結果として大病になり、生涯の不幸になる。一盃の酒や椀半分の食を控えないために病気になることもある。わずかな欲を欲しいままにすれば、それによって害することは大きいのである。

古語に「犯す時は微にして秋豪(きわめて少ないこと)の如し、病をなして重きこと、泰山の如し」とある。この言葉はまことに道理である。およそ小さなことから大きな不幸が生ずることが多い。小さい過失から大きな禍となるのは、病気のつねである。慎まなければならない。日頃から右にあげた二つの古語を心にかけて忘れないようにしなければならない。


31天寿の全うは養生から

養生の道を無視すると、生まれつき健康で、元気旺盛なひとも、天寿を全うせずに早世する。これは天からの禍(わざわい)でなく、自らが招いた禍である。健康な人は、健康を頼って慎まないから、弱い人よりかえって早く世を去ることもある。

これに対し、体力なく、飲食は少なく、常に病気がちで短命と思われる人が、かえって長生きすることもある。これは弱いことを畏れて生活を慎むからである。こうしてみると、命が長いか短いかは身の強弱によるものではなく、生活を慎むか慎まないかによる。白楽天の言葉に、「福と禍とは、慎むと慎まざるにあり」とあるが、その通りであろう。


32富貴財禄と健康長生との違い

(健康長命は求めれば得られる)

世間には富や財禄ばかりを求めて、ひとにへつらったり仏神に祈ったりする人が多い。 無病長生を求めて養生をし、身を保持しようとする人は稀である。財産や地位や所得は外にあるもの。求めても天命(運)がなければ得られない。無病長生は我にあり。求めるならば得られよう。求めても得がたいものを求め、得やすいことを求めないのは愚かなことである。たとえ財禄を求めることができても、多病で短命ならばどうにもならない。


33血気流を通し滞らぬようにするのが健康のもと

陰陽の気は天にあって、おのずから流動して停滞しない。だから春・夏・秋・冬の四季の変化が行なわれ、万物がよく生する。もし陰陽の気が偏って停滞するようなことがあれば、流動の道が閉塞し、暖冬冷夏、大風・大雨などの天変となって凶害が起こる。人の身においてもまたそうである。血気がよく流通して滞りなければ、気が強くなって病気にならない。

血気がよく流れないと病気になる。その気が上で停滞すると頭痛や眩暈となり、中に停滞すれば心臓病や腹痛となり、また下に滞ると腰痛や脚気となり、さらに淋疝(疝気)や痔瘻などの病となる。ゆえに、養生をしようと思うなら、できるだけ元気が停滞しないようにすることであろう。


34心と主体性

養生を志すひとは、心に常に主体性を持たねばならない。主体性があるならば、思慮分別して是か非かを判断出来、怒りをおさえ、欲を我慢して間違いが少ない。が、主体性に欠けると思慮が浅く、怒りや欲をこらえることができないで、間違いが多くなる。


35我慢と養生(忍ぶ、が養生の要諦)

何ごとでも、一時的に快を覚えることは必ずあとで禍になる。酒食を欲するままにとれば、そのときはよいが、やがて病気になるようなものである。はじめに我慢すると、あとでかならず快になる。灸の治療は熱くて痛いものだが、これに堪えればあとは病いにならないようなものだ。 唐代の詩人杜牧は、「忍過ぎて、喜びに堪えたり」というが、これは欲をおさえることによって、あとは喜びになるという意である。


36予防と養生(未病を治するの法)

「聖人は未病を治す」といわれているのは、罹患するまえに、慎んでいれば病気にならないということである。もし、飲食や色欲などの内欲をこらえないで、また風・寒・暑・湿などの外邪を防がなければ、大病になり、思いのほか悲しみ、長く苦しむことになる。病気とはそうしたものである。 病気になると、それ自身の苦痛だけでなく、痛い針で身をさし、熱い灸で身をやき、にがい薬を飲み、食べたいものを食べず、飲みたいものも飲めないで、身を苦しめ、心を傷つける。

病気でないときに、予防的に養生をすれば病気にはならず、目に見えない大きな幸せになる。 孫子は「よく兵を用うる者は赫々(かくかく)の功なし」という。これは、上手に兵を動かす士官は、一見してわかる手柄がない。戦いの起こるまえに戦わないで勝つ、という意味である。

また「古の善く勝つは、勝ち易きに勝なり」ともいう。養生の道もまたこのようにせねばならない。 身体について深く思い、罹病まえに、勝ちやすい(欲)に勝つと病気は起こらない。良将が戦わないで勝ちやすいものに勝つが如し。これこそもっともよい策「未病を治す」の道である。


37気ままをおさえる(用心は臆病に)

ことわざの「用心は臆病にせよ」というがごとく、養生の道は恣(ほしいまま)を戒、慎むを専とする。恣とは欲にまけて慎まないことである。慎みは恣の裏である。慎みは畏れることが根本である。畏れるということは大事にすることをいう。

唐代の名医、孫真人も、「養生は畏るるを以て本とす」という。これはまさに養生の要件である。 養生の道においては、勇ましいのはだめで、畏れ慎み、いつも小さな橋を渡っているように用心することである。これが畏れるということだ。若いときは血気盛んで、強きにまかせて病を畏れず、欲をおさえないので病気になりやすい。すべて病気は起こるべくして起こるもので、かならず慎まないから起こる。とくに老人は身は弱いから、十分に畏れて注意しなければならない。畏れないと年齢にかかわりなく多病になって、天寿を全うできないのである。


38寡慾(欲を少なくすること)が原則

健康であるためには養生の道にしたがわなければならない。針や灸や薬をたのみとしてはならない。 ひとの身には、口・腹・耳・目の欲があって、身を痛めることが多い。古人の教えにはすばらしい養生の法がある。それは孟子の「欲を寡くする」ということである。

宋代の王昭素もまた、「身を養うことは欲を寡くするにしくはなし」という。『省心録』にも、「欲多ければすなわち生を傷(やぶる)」とある。およそ病気は、みな自分の欲をみたそうとし、慎まないことから起こる。養生の士は、つねにこれを戒めとしなければならない。


39気の停滞と病気

気はひとの身体に広く隅々まで行きわたるようにしなければならない。胸の部分に集めてはいけない。怒り・悲しみ・憂い・思いがあれば、胸の部分に気が集まってとどこおることになる。七情(喜・怒・憂・思・悲・恐・驚)が過度になり、停滞するのは病の起こる基(もとい)となる。


40偏しないことが養生法

俗人は、欲をおさえようとしないので義にそむき、気を養おうとしないので天寿を全うすることが出来ない。理も気も、ともに失う。 仙術の士は養気のみにかたよって道理を好まない。それゆえに礼儀をないがしろにする。 いやしい儒者は道理にかたよって気を養わない。だから修養の道を知らないで天寿をたもつことができない。この三つはともに君子の行なう道ではない。


   



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