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洋彰庵版 養生訓巻第二 総論下

洋彰庵 利吉



1朝の行事と食後の養生法

さて朝は早く起き、手と顔を洗い髪を整え、便所に行き、食後はまず腹を撫でおろし消化を助け、 さらに京門(左腸腰腹部)をひとさし指の内側で、斜めに繰り返して撫でる。

次いで腰をも撫でおろし下部を静かに叩く、強くはいけない。もし食べ物がつかえたら、上を向き食毒気を吐く。(二、三度ばかりげっぷを試みる)朝夕の食後に長く安坐はいけない。さらに横になり眠ることは禁物。気が塞がりって病気になり、繰り返せば短命になる。食後は常に三百歩、時にはもっと歩くとよい。


2労働の大切さ

家中では、体力に適した労働をする。立坐する動作をいとわず、部屋の中のことは下女・下男を使わず、できるかぎり自分の体を動かす。ひと手を必要とせず、思ったように事が調うので、召使いを使うための心労をもしないですむ。これは「心を清くし事を省く」利点がある。つねに身体を動かしていると、気血(気力と血液)がよく循環し、食物も胸に滞らない。これが養生の要点である。

身体を常に休ませ、怠けてはいけない。自分に応じた仕事をして手足を働かせる。緩急をもって動作をすれば、気が巡って滞らない。静かにしすぎると塞がり、動きすぎれば疲れる。動も静も過度はいけない。


3働くことは養生の道

華佗(医者、[後漢]二〜三世紀ごろ)はいう。「人の身は労働すべし。労働すれば穀気(穀物の毒気)がきえて、血脈流通す」と。そもそも人の身体は、欲をすくなくしてときどき運動をし、手足を働かせ、よく歩いて長いあいだ同じ所に坐っていないようにすれば、血気がよくめぐって滞る心配はない。これも養生の大切な努めである。心がけるがよい。

『呂氏春秋』(呂不韋の編集した儒、法、道、天文などの学説を集めた哲学書)に、「流水腐らず、戸枢螻まざるは、動けばなり。形気もまた然り」と。その意味は、流水は腐らないが、たまり水は腐る。開き戸の開閉する軸は虫がくわない。これは、たえず動いているからなののだ、と解釈する。

ひとの身体も同じ理由にて、動かなければ、消化が悪く、血気が巡らずに病となる。食後すぐに臥したり、昼寝は最もいけない。夜でも消化しないうちに寝ると、気が塞がり病になる。養生の道では、こうした事を最も避けなければならない。


4久しくするな!が『千金方』の養生法

『千金方』(唐の医者孫思ばくの『千金要方』で、いわゆる医学百科)の養生の道は、 「久しく行き、久しく坐し、久しく臥し、久しく視る」ことなかれ、といっている。


5臥す回数と寝る時間を少なくする

酒食の気がまだ消化しないうちに横になって眠ると、必ず酒食が滞って、気も塞がり病となる。 注意せよ。昼間は臥床するのはよくない。大いに元気を損なうからである。もし、ひどく疲れたならば、うしろに寄りかかって眠ればよい。それでも臥床したい時は、傍らに人をおいて少々眠るがよい。そして時間で人に起こしてもらうがよい。


6昼寝と食後の臥寝を避ける

日の長い時節でも昼寝はいけない。体力が消耗した人は、その季節になると、日沈後すぐに眠くなるかもしれない。それを防ぐには、晩食のあと身体を動かし、歩行し、日没のころから横になって体気を休めるがよい。この時横になっても眠ってはいけない。長く横になったり、眠ると身体に極めて悪い。 燈火のつく夕方には起きて坐すことである。こうすれば夜になっても身体に力があって、すぐに眠くはならない。日没のころ、できれば横にならないで済むのなら、それが最も望ましい。


7過信の戒め

養生の道では頼む心を戒めている。 自分の強健を頼み、若さを頼み、病気が軽快したことを過信したりするのは、すべて不幸のもとである。刃の鋭いのを頼りにして硬い物をきると刃がこぼれる。(気の強き)を頼りに気を使いすぎると気が消耗してしまう。脾腎(内臓)の強いのを頼りに飲食・色欲を過ごすと病いになるのである。


8小欲をすてよ

かりに、宝石を以てつぶて(小石)とし雀を打つ人がいたとしたら、馬鹿なことをするものだ、と嘲笑されるだろう。それは極めて大切なものを捨てて、つまらないものを得ようとしたからである。 人の身体は何よりも貴重である。しかるに、とるに足りない小さい欲をむさぼって身を損なうことは軽重を知らないといえよう。あたかも宝石をもって雀を打つようなものである。


9心は安らか、身は労働

人は心を楽しませて苦しめないことがもっともよい。が、身体は大いに動かし労働することがよく、休養しずぎてはいけない。好きなものを食べすぎ、美酒を飲みすぎ、色を好み、体を休めすぎていると、かえって身体の害になる。

また病気でもないのに補薬(栄養剤のような補助薬)を多用するのはかえって病いになりやすい。 いずれも身をいたわりすぎたからである。まことに子供をかわいがりすぎて、かえって子供の不幸をまねくようなものである。


10恣は短命、忍べば長命

一時的な欲望を制することができないで、病気になり、百年も生きられる身体をこわすのは馬鹿げたことだ。愚かというほかない。長生きを保っていつまでも安楽でありたいと思うなら、欲のおもむくままに行動してはならない。欲をおさえることは長生きのもとである。欲のおもむくままにするか、それをおさえるかは長命と短命とのわかれ道になるのである。


11予防の必要性

『易経』に「患(うれい)を思い、かねて之を防ぐ」という。意味は、これから生ずるであろう憂いを考えて、それが発生しないように予防せよ、である。『論語』にも、「人遠き慮(おもんばかり)なければ、必ず近きうれいあり」とある。これらの教えは、初めは慎んで、終わりを保つ(あとを無事に済ませよ)の意である。


12人慾恣にしないこと。(酒食・色欲を慎む)

人が欲のままに楽しんでいると、その楽しみがまだ尽きないうちに、早くも苦しみが生ずるものだ。酒食・色欲を恣(ほしいまま:気まま)に楽しんでいるうちに、早くもその結果が出て苦しみが起こるようなものである。


13元気を養う努力

人が暮らしている中で、元気を養う事と消耗させる事のどちらが多いかを比較してみるがよい。 多くの人は、一日のうちで気を養うことは少なく、気を消耗させることが常に多い。養生の道は元気を養うことのみに努め、元気を損なうことがあってはならない。

もし元気を養うが少なく、消耗が多くそれが毎日積もれば(元気が減り)病になって致死的ダメージを招くであろう。限りある元気であって、限りのない欲を自由にしようと思うのは、間違っている。


14慎みは長寿健康のもと

古語に「日に慎むこと一日、寿(いのちながく)して終に殃(わざわい)なし」とある。 毎日を反省して慎めば、身体に無理もなく、健康をたもって長生きし、寿命を全うするまで災いはないという意味である。これが身体を平安にたもつ要道である。


15瞬間の快楽を求めるな。(はじめの自制)

飲食や色欲を恣(ほしいまま)にし、快美であっても、あとで必ず身体を悪くして、長い苦痛のもとになる。あとで心痛のないことを願うならば、はじめに快美なことを好んではならない。万事はじめに快なることは、間違いなくあとで苦痛となる。最初に自制すると、あとで楽になる。


16養生法の要項

養生の道は多言を必要としない。実行することは、ただ飲食を少なくし、病気を助長するものを食べず、色欲を慎み、精気をもらさず、怒り・哀しみ・憂い・思いなどの感情に激しないことである。 心を平静にして気を和らげ、言葉を少なくして無用のことをいわないで、風・寒・暑・湿の外邪を防ぎ、また時々身体を動かし、歩行し、時ならず寝ることをせず、食気の循環をよくすることだ。


17飲食と睡眠(養うものだが少ないほうがよい)

飲食は身体を養い、睡眠は気力を養う。しかし飲食過度ならば、脾胃をわるくする。横になって寝過ぎるのは、元気を損なう。この二つ(寝食)で、健康を得ようとして、かえって病気になることがある。しっかり養生する人は、朝は早く起き夜半に寝て、昼寝をしないで、たえず業を務めて怠けず、睡眠を少なくして神気(精神)を清らかにし、飲食を少なくして腹中を清虚(きれいに)する。さすれば、元気が良く巡り塞がらず病に罹らない。発生した気はますます養われて、血気はおのずから旺盛になり病にならない。寝食のほどよく節制されることは、養生の要道である。


18道を楽しむ人は長命

貧賤である人でも道に従い楽しんで過ごすならば、大きな幸福である。だからそうして暮らすならば、楽しみも多いであろう。まして一年の間は四季折々の楽しみがあり、日々に限りない変化があるから、いっそう長く興味深くすごすことができよう。

「知者の楽しみ、仁者のいのちながき」という言葉がある。そう簡単に楽より寿にはなれないが、 毎日を楽しみながら長命になる順序は似ているといってよい。


19心を平静にして徳を養い、多言せず。

心を平静にし、気をなごやかにし、言葉を少なくして静をたもつことは、徳を養うとともに身体を養うことにもなる。口数多くお喋りであること、心が動揺し気が荒くなることは、徳を損ない、身体を損なう。身体に害をなす点では同様なのである。


20山中の人が長命な理由

山中で暮らしている人の多くは長命である。古書にも「山気は寿多し」といい、また「寒気は寿」ともいう。山中は寒いので、身体の元気を閉じかためて内に保ち、外部に漏らさないから命が長い。 暖かな地方に住む人びとは、元気が漏れ、内に保てないので短命となる。

また山中の人は交際も少なく、静かで元気を減らす事が少ない。万事につけて不自由であるから、欲も少なくなる。ことに魚類が殆どないので魚肉の過食がない。ゆえに山中に住む人は長命なのである。ところが、市中ではそうはいかない。交際も多く、多忙で気が減る。海辺で暮らせば魚肉を過食し病多く短命の人が多い。町中でも、海辺でも、欲を少なくして肉食を節制すれば、害は少ないであろう。

(注釈:昔は肉類は殆ど魚肉であり牛や豚ではなかったのでこのような表現なのでしょう。平成解釈では魚肉、特に雑魚丸ごと食す。は健康に良いです。 洋彰庵)


21貧賤に居てこれを楽しむ

(心の楽しみを知る)
ひとり家にいて静かに日を送り、古書を読み、古人の詩歌を吟じ、香をたき、古法帖(古い名人の筆跡をうつした折本)を見て楽しみ、山水を眺め、月花を賞し、草木を愛し、四季の変化を楽しみ、酒を少量たしなみ、庭の畑でとれた野菜を煮たりするのも、みな心を楽しませ気を養う助けになる。 貧賤であってもいつでもできる。この楽しみを知っていれば、富貴でも知らない富豪よりは優っている。


22忍は養生の要領

古語に「忍は身の宝なり」、とある。何事でも忍べば災いがなく、忍ばないと不幸になる。忍ぶというのは、堪えることで、換言すると自制することである。とにかく養生の道は怒・欲を堪えることである。忍の一字を守らなければならない。

銘言に武王(周王朝初代の名君)の「これを須臾に忍べば、汝の躯を全くす」や、尚書の「必ず忍ぶこと有れば、すなわち済すことあり」や古語の、「莫大の過は須臾の忍びざるに起る」とある。 この古語銘言の(忍)の一字は身を養いそして徳をも養う大切な道である。


23胃の気と生命

胃の気とは元気の別名である。冲和(中和)の気のことである。病が重くても胃の気のある人は生きるが、胃の気のないものは死ぬ。胃の気の脈は、長くも短くも遅くも早くもなく、また大きくも小さくもなく、年齢に応じてほどよく中和して、何とも言えず麗しい。古人の説では、元気の衰えない無病のひとの脈はこうした脈であるとあり、自分でよく理解してほしい。

養生をするひとは、たえずこのような脈であることを願わなければならない。養生なく気の減少した人は、若くてもこうした脈に乏しい。これを病人という。病脈ばかりがあって、胃の気の脈のないひとは死ぬ。また目に精神(生気)ある人は長命で、生気のない人は短命である。病人を診察するときはこの事を忘れてはならない。


24荘子のたとえ(庖丁が牛を解く)

養生の術は、庖丁(料理人のこと)が牛を解体するのに似ていると荘子が説いている。つまり牛の関節にはすき間があって、庖丁の刃は薄いので、刃をもって広い関節のすき間に入れると、刃の動くゆとりがあって骨に触れることがない。だから十九年間も牛をばらしてきたのに、(私の)庖丁はいま砥いだように鋭い。世間においても、心を豊にして争うことをせず、理にかなった行為をすれば、ひとの世にさわることなく、天地は広く感じられる。こうした人は長命をたもつのである。


25気を減らさず、塞がず

他人に対して、喜びや楽しみを強く表現すると、気をむだ使いして減少しまう。かといって孤独になって憂いや悲しみが多くなると、気が流れないで塞がってしまう。減ることも塞がることも、ともに元気の害である。


26気を養う法

心を静かにして騒がしくせず、気を和やかにして荒くせず、言葉を少なくして声を高くせず、大笑せず、むやみに不平をいって怒らず、悲しみを少なくし、失敗をくやまず、過失があれば一度反省し二度と悔やまず、ただ天命にしたがって心配をしないこと、これらは心気を養う方法である。


27津液(唾液)は大切に

草木も潤いがないと枯れるように、唾液は身体の潤いで、体液となるものである。そのように唾液は大切なものである。唾液は内臓から口中に出てくる。大切にして、吐いてはいけない。なお遠くへ吐いてはさらに悪い。気がへるからである。


28唾液と痰との違い

唾液は呑み、吐いてはいけない。痰は吐くべきで呑んでは害になる。痰があったら遠くに吐かず、 紙でとるようにする。飲んだ水や唾液が身体に滞り、体内で痰になったら、それは再度唾液にはならない。痰が身体の内にあると気をふさいで害になる。この道理を知らない者はは痰を飲む間違いをする。痰を吐くときは軽く吐いて、力を入れすぎて気を漏らしてはいけない。酒を多く飲めば痰ができ、気をのぼらせ唾液をへらす結果になる。


29病気にあった治療法

何事でも、あせるとよくない結果になることが多い。病気の治療もおなじである。病になり、あわてて医者を求めたり、薬を用いたり、鍼灸するのは、よくないことである。導引や按摩も同じである。 病に適した治療であるか否かを考えないで、むやみに治療を求めてはいけない。温泉療法もまた同じで、病に適しているか否かを熟孝せずやたらに湯治すると、かえって病気をわるくして死んでしまう。とにかく薬治、鍼、灸、導引、按摩、湯治療法の六つは、病気と治療との当否をよく選び実行すること。その適不適を知らず六つの治療をみだりに使用すると、病をかえって悪化させる。


30善きも悪しきも習い性となる

(養生もまた習慣)
善、悪はすべて習慣から起こるものである。養生の慎みや努力もまた例外ではない。努力して怠けないのも、欲を慎み自制することも努力すれば、次第に習慣づき苦痛でなくなる。慎まないで悪に慣れて習慣となってしまえば、慎み努力しようとしても苦痛で堪えられなくなる。


31自らの力量を知り相応のことを行なう

何をするにしてもまず自分の力量を計ってからすべきである。力の及ばないのに無理をしてその業をすると、気が減って病気になる。力量以上のことはしてはいけない。


32若い時から元気を養う

青年であれ老人であれ元気を惜しまなければならない。年が若く健康な時から元気を養うべきである。壮健であるといっても元気を多用しすぎてはいけない。若いときに元気を惜しまないで、老いて身体が衰え始めてから保養するのは、たとえていうと、財産のあるときは考えもせず金を使い、やがて貧窮して財産がなくなってはじめて倹約をするようなものである。しないよりはよいが遅すぎて効果が少ない。


33気を費やすことには吝嗇(けち)であれ

老子は、気を養うには嗇の字を心がけなければならないという。嗇とは(惜しむ)ことである。 例えば、吝嗇(けち)な人が金があり余っていても惜しんで他人に与えないのと同じように、気を惜しんで乱費しなければ元気が減らず長生きできるであろう。


34養生の要点は忍耐

養生の要点は自欺こと戒め、よく忍耐することである。 自欺(みずからあざむく)とは、それが悪いのを知りつつも、嫌わないで行なうことをいう。 悪と知って行なうことは、真に悪を嫌っていないことで、これが自欺である。


35欲望の日々は自殺行為である

世間の多くの人びと、生まれつき短命な形相の人は稀である。長命に生まれついた人も、養生をしないと、寿命を保つことができないのである。たとえば、彭祖(殷の人、七百歳を生きたといわれる)ですら、刀で喉笛を突きさすと、死ぬだろう。

いまの人が欲のままに自制しないで生命を損なうのは、みずから喉笛を突いて死ぬようなものである。喉笛を突いて死ぬことと、欲をほしいままにして死ぬことは、時間的には早いか遅いかの違いはあるが、ともに自殺行為である。気が強く長生きすべき人も、気を養わなければかならず短命であって天寿を全うすることができない。


36完全無欠を求めるな

すべてのことに完全無欠であろうとすると、自分の心の負担になって楽しみがない。種々の不幸もこうした考えから起こる。また他人の奉仕を求めると、奉仕不足を怒りとがめるので、心の苦痛になる。そのほか日常の飲食、衣服、器物、住い、草木なども美しく非のないものを好んではならない。 多少でも気にいったものでよい。完全無欠を求めてはいけない。


37養生の効果を知る

あるひとがいう。「養生の道が飲食、色欲を慎むのと同様であることは自分はよく知っている。が、自制できずほしいままで、養生ができない。」、と。 そうは思わない。これはまだ養生の術を真に知らないのである。よく知ったならば、どうして養生の道を実行しないでいられようか。水に落ちれば溺死し、火に入れば焼死する。砒霜(砒素を加熱して結晶させたもの)を飲むと中毒死することを誰でも知っているから、人は、あえて水火に入ったり砒霜を飲んだりしないのである。多欲であるゆえに生命を傷つけるのが、刀をもって自殺することと 同様の理であることを知っておれば、どうして欲を自制しないでいられようか。

誤って不幸となるのは、すべて無知から起こる。人倫にそむき他人を損ない苦しめると、天の責めと人びとからの咎めがあって、自分の不幸になることは必然であるが、愚人はそれを知らない。 危険なことをして不幸になるのは知らないから生ずる。養生の術を熟知すれば、どうして欲にひっぱられて慎みを忘れるようなことがあろうか。


38楽しみを失わざるは養生の本(根本)

聖人はしばしば楽しみを説かれる。私の愚かさでは聖人の心を推察できないけれど、楽しみは人間の生来にあたる天性(天地の生理)であろう。それを楽しまないで天地の理にそむくわけにはいかない。たえず養生の道にしたがって欲を自制して楽しみを失ってはならない。


39畏れと慎みとは長命の基

食欲と色欲とを少なくし、心を平和にしていつでも畏れ慎めば、血気はひとりでに整合し、病気になることはない。これが長生きの術である。こうした生活をすると間違いなく長生きをする。これは長生きの術である。この方法を信じて実行すると、巨万の富を得た以上に幸いになるであろう。


40満ち足るは憂いの始まり

(酒は微酔、花は半開)
万事が十分に満たされて、その上に何もつけくわえることができなくなった状態は、心配の始まりと思ってもよい。古人は「酒はほろよいに飲み、花は半開に見る」という。意味は、酒を十分に飲むと楽しみは終わる。少量を飲んでもの足らないほどが楽しみであって心配もない。花が満開すると、盛りがすぎて花心がなく、まもなく散ってしまう。花の半開のときが盛りである。


41瞬時を我慢せず、一生を誤る

一時の浮気を勝手気ままにすると、生涯の持病になるか、あるいは即時に生命に危険がせまる。 はかりきれない不幸はわずかな時間を忍耐しないから起こる。恐ろしいことである。


42養生は中(過不足がない状態)を守る

養生の道は中を守ることだ。食物は空腹をさける程度でよく、それ以上に恣(ほしいまま)食べてはいけない。これが中を守ることである。万事はこのようにあるべきだ。


43従容と静かに、言語を少なく

心はたえずゆったりとして静かで、せかせかしないで平穏にあるがよい。言葉はとくに静にして口数を少なくし、無駄なことをいってはいけない。これは気を養う最上の方法である。


44元気を静かに保ち、動いては元気を巡らす

身体は気をもって生命の根源、つまり命の主人としている。それゆえに、養生をよくする人は常に元気を惜しんで減らさないようにする。静かにして元気を保ち、ほどよく動いて元気を循環させる。 保つと巡らすの両方が備わっていないと気を養うことは困難である。静かに保つと動いて巡らす事を臨機応変に実行することが気を養う道である。


45大風雨と雷とを畏れよ

もし大風雨と烈しい雷があれば、天の威力を恐れて、夜中であってもかならず起きて衣服を着て 坐っていなければならない。横になって寝ていてはいけない。


46客としての心得

客になって昼間から他所にいったならば、夕暮れにならぬうちに帰るのがよい。夜まで語り続けると主人も客も疲労する。長居をすべきではない。


47百病みな気より生ず

『素問』という医書に「怒れば気上る。喜べば気緩まる。悲しめば気消ゆ。恐るれば気巡らず。 寒ければ気閉ず。暑ければ気泄る。驚けば気乱れる。労すれば気減る。思えば気結る」 と書かれている。すべての病はみな気から生ずる。病気というのは文字どおり気が病むことだ。 それゆえに養生の道は気を調整することが重要である。気を和らげ平穏にすることで、気を減少させず、よく巡り気が養われる。これが気の調整である。


48真気を丹田(臍の下三寸)に集める

腎臓の動気といわれるものはここにある。『難経』(斉の医者・秦越人の薯)という医書に、 「臍下腎間の動気は、人の生命なり。十二経(鍼灸学・手足の十二経脈)の根本なり」とある。 丹田には生命の根本が集中している。気を養う術はつねに腰を正しくすえて真気を丹田に集め、呼吸を静めて荒くせず、事をするときは胸中から何度も軽く気を吐きだして、胸中に気を集めないで丹田に気を集めなければならない。こうすれば気はのぼらないし、胸は騒がないで身体に力が養われる。

有事は、このようにするがよい。やむなく人と論争するときも、そうすれば、怒気に破滅されず、浮気にもならずして間違いは生じない。芸術に励み、武術に励みまた敵と戦うときにも、皆この心がけを主とするがよい。これは事に励み気を養うためのよい術(方法)である。 道士が気を養い、僧が坐禅するのも、みな真気を臍の下に集中する方法である。とにかく技術を行なうものは、この法を知らなくてはならない。


49七情の統制と養生

一般の七情とは、喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲のことである。
医家では七情を喜・怒・憂・思・悲・恐・驚とする。
また六欲というものがある。耳・目・口・鼻・身・意の欲である。
七情の中で、怒と欲との二つはもっとも徳を傷つけて生を損なうものだ。怒りを制し欲を我慢するのは易経でも戒めとしている。怒りは陽に属し、火が燃えるようである。ひとの心を乱して元気をそこなう。だからこれをおさえて忍ばなければならない。欲は陰に属して水が深いようなものである。 ひとの心を溺らせ元気を減らすのは欲である。心してこの二つは防がなければならない。


50養生の要訣と十二少

養生の要訣に一事がある。要訣とはもっとも大切な奥義を口伝えに授けることである。養生を志すひとはこれを覚えて実践しなければならない。その要訣というのは「少」の一字である。 少とは万事をひかえめにして過度もしないことをいうのである。すべてつつましく、いわば欲を少なくすることだ。欲とは耳・目・口・体のむさぼりを好む習性のことをいう。たとえば酒食を好み、好色を好むといった具合である。とにかく欲が多いものは身体を損なって命を失うことになる。欲を少なくするには目録が十二あり、「十二少」と名づけられている。ぜひ守らなければならぬ。

それは、食事・飲物・五味の味つけ・色欲・言語・事・怒り・憂い・悲しみ・思い・睡眠(11項) などを少なくすることである。こうして何でも控えめにすると、元気は減らないで脾腎を悪くせず 寿命を保つことができる。(注、『千金方』には「思・念・欲・事・語・笑・愁・楽・喜・怒・好・悪」の「十二少」あるが、益軒翁はその時代に合った十一のみをとりあげたとしている。)


51養生の四項

内欲を少、外邪を防、身体をときどき動、睡眠を少。この四つは養生の大要である。


52気を養うの法

気を和平にして荒くしてはいけない。静かにしてみだりに動かしてはいけない。ゆるやかにして 急なるべからず。口数を少なくして、気を動揺させてはならない。たえず気を臍の下に集めて、胸に上げてはいけない。これは気を養う方法である。


53詠歌や舞踏は気の循環

古人は詠歌や舞踏をして血脈を養い血行を良くした。みな心を和らげ、身体を動かし、気を循環させて身体を養う。まさに養生の道である。導引や按摩をして気を循環させるようなものである。


54養生の四寡

思いを少なくして神(心)を養い、欲を少なくして精(霊)を養い、飲食を少なくし て胃を養い、言葉を少なくして気を養わなければならない。これが養生の四寡というものである。


55養生の七養

摂生の七養という言葉がある。一つは言葉を少なくして内気を養うこと。二つは色欲を戒めて精気を養うこと。三つは味の濃いものを食べないで血気を養うこと。四つは唾液をのんで臓気を養うこと。五つは怒りを制して肝気を養うこと。六つは飲食を節制して胃気を養うこと。七つは心配ごとを少なくして心気を養うこと。以上『寿親養老補遺』(明代初期の医者劉純の著)に書かれている。 これを守らないといけない。


56修養の五宜

孫真人はいう。「修養の五宜あり。髪は多くけずるに宜し。手は面にあてるに宜し。歯はしばしばたたくに宜し。津(唾液)は常にのむに宜し。気は常に練るに宜し」、と。 (練るというのは、騒がしからず静かにしていること)


57久しく同じ状態を続けるは不可

長時間歩き、長時間坐り、長い間横になり、長時間語りつづけてはいけない。これは長時間の労作で気が減るからである。また長い間安逸に暮らすと気が塞がって循環しない。気が減ることと塞がることは、どちらも身体の害になる。


58養生の四要

養生の四要は、「怒らず、心配せず、口数を少なくし、欲を少なくする」ことである。


59四損と養生

唐椿(明の医者)が『病源集』に述べている。「四損は、遠くつばきすれば気を損ず。多くねぶれば(眠れば)神(心)を損ず。多く汗すれば血を損ず。疾行けば筋を損ず」、と。


60老人の痰

老人は痰に苦しむけれど、強い痰きりの薬を使用してはいけない。すべて去痰しようとすると、 かえって元気が減る。これは古人の注意しているところである。


61呼と吸と

呼吸はひとの鼻からたえず出入りする息のことである。呼は出る息で、身体の内にある気を吐き出す。吸は入る息であって、外気を吸うことである。呼吸はひとの生気である。呼吸がなくなると死ぬ。ひとの体内にある気は天地の気と同じであって、内外あい通じている。

人の体内にある気も天地に満ちている気と同じであるがしかし、体内の気は内臓にあるので古くなってよごれている。天地の気は新鮮で清らかである。だから、ときどき鼻から外気を多く吸いこむとよい。吸いこんだ気が体内にいっぱいになったならば、口から少しずつ静かに吐き出すこと。

これは古くよごれた気を吐き出して新しい清らかな気を吸いこみ、新しい気と古い気との換気であるから荒々しく早く吐き出してはいけない。


62『千金方』の呼吸法

『千金方』に、「常に鼻から清気を引き入れ、口より濁気を吐き出す。入るること多く出すこと少なくす。出すときは口をほそくひらきて少しずつ吐くべし」と書かれている。


63呼吸はゆっくりと

いつも呼吸はゆっくりとして、深く丹田に入れるようにする。急に呼吸してはいけない。


64調息の法

調息の法は、呼吸をととのえて静かにすれば、息が次第に小さくなっていくことである。 繰り返して長くつづけると、鼻の中に気息がないかのようになる。ただ臍の上から微息が往来しているのを感ずるだけになる。かくして神気が定まる。これが気を養う術である。呼吸は体内の気を出入させる道路である。だから荒々しくしてはいけない。


65心の養生と身体の養生は一体

養生の術は、まず心法をよく慎んで守らなければ行われない。心を静かにして落ちつけ、怒りをおさえて欲を少なくし、常に楽しんで心配をしない。これが養生の術であって、心を守る道でもある。心法を守らなければ養生の術は行われないものだ。それゆえに、心を養い身体を養う方法は一つの術である。


66夜ふかしの害

夜に読書したり、語りあったりするのは三更(十二時)を限度としなければならない。 一夜を五更に分けると、三更は四つ半すぎから九つのあいだ(午後十一時〜午前零時)である。 深夜まで起きていると神経が高揚して静まらないからである。


67居室の環境を清潔に

まわりの環境が清潔であると、中心もこれに触れて自から清くなる。外側から内部を養うの道理である。ゆえに居間はいつも塵埃をとり除いて、前庭も下男にいいつけて毎日きれいに掃かせるがよい。自分でもときどき机上の埃をはらい、庭に出て箒をもって塵を掃くよう心がけるがよい。心を清らかにすることができ、身体の運動にもなる。みな養生の補助となるのである。


68天地陰陽について

(難解でしたのでほぼ原文を現代語にしました)
中村学園版も併せて御読みください 洋彰庵)

天地の理(存在比率)は、陽が一で陰は二である。水は多くて火は少ない。水は乾きにくく火は消えやすい。人間は陽類に属して数少なく、禽獣虫魚は陰類に属して数が多い。陽は少なく陰は多いということは自然の理である。君子は陽の類で少なく、小人は陰の類だから多い。

易道は陽を善として貴び陰を悪としていやしみ、君子を貴び、小人をいやしむのである。

水は陰に属している。暑い季節には水を減らしたいが、ますます多くなり、寒い季節には増やしたいのだが、かえって少なくなる。春夏は陽気が盛んであるから水が多く生ずる。が、秋冬は陽気が衰えるので水は少ないのだ。血は多くへっても死なないが、気が多く失われるとただちに死んでしまう。吐血、刀傷、産後の出血など、血液をたくさん失ったときに血を補うと、陽気がへってかえって死ぬことになる。気を補うと生命を保つことが出来、血液も自然に生じてくる。

古人も「血脱して気を補うは、古聖人の法なり」といっている。人身の中には陽が常に少ないから貴く、陰はつねに多いので卑しいのである。だから陽を貴んで盛んにし陰を卑しんで抑えなければならない。元気生々ずると真陰もまた生じてくる。陽が盛んであると陰も自ら長ず、陽気を補えば陰血自ら生ずるであろう。

もし陰不足を補う薬草を長いあいだ服用すると、元陽を損なって、胃気衰えて血を滋生せずに、陰血もまた消えないだろう。また陽の不足を補おうと毒草などを使用すると、邪火を助けて陽気も同時に亡びてしまう。これでは陽をおぎなう補うことにはならない。

丹渓(元代の名医)の「陽有余陰不足論」(陽の余剰で陰不足する論)はいかなる書物に基づいているのだろうか。もし丹渓自身の私言であるならば、根拠のない言で信じられない。

それは易道の「陽を貴び陰を卑しむ」という理にも反する。もし、陰陽の数量の割合から多少を論ずるとすると、「陰有余陽不足」(陰余剰で陽不足す)というべきであって、後世のひとがその偏見を受け入れているのはなぜだろうか。丹渓は文字どおり昔の名医である。医学にも功績がある。彼がもっぱら陰を補うのも、当時はその考えが流行したのであろう。が、彼(丹渓)は昔の名医であっても医の聖ではない。彼の偏った論説はこの他にも多い。偏見の論説は信じてはならないのである。 丹渓の法にしたがって、もっぱら補陰すると、脾胃をわるくし、元気を損なうであろう。

東垣(李杲、東垣は字、元初の医者)は脾胃を調えるために温補の法を主張したが、これは医学の中の王道といってよかろう。明代の医者の書いた『軒岐救生論』や『類経』などの書には、丹渓をひどく非難している。その説は一応うなずかれる。が、これもまた一方に偏していて、丹渓の長所までも否定している。古来医術の書物は、しばしばかたよって全体をみていないものが多い。近世明末の医者にその弊害がみられる。よく選んで取捨しなければならない。

ただ李中梓(字は士材、明代末の医者)の説は公平に近く例外といえよう。


   



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